12月15日(金)は博多区美野島商店街のまちづくり拠点「ゆらりん」で設計集団櫂の忘年会と、第2回「茂木謙悟さんを囲んで」が開かれました。
若い人たちに茂木さんの近作と伝統建築について語った第1回とは異なり、第2回は綜合建築研究所創設期にコンクリート打ち放しの構造とモデュールを追及していた若き日々の話でした。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
転機は1965年だった-内山節(哲学者)
近代合理主義が浸透する以前の人間の世界の豊かな営み、自然の声に耳を傾け、神々のまなざしを読みとる、日本の民衆の自然信仰はおもしろい。知性で全てのことを論じてしまうのは人間の精神を閉じてしまうのではないか・・・
日本の自然信仰(キツネやカッパ)から、茂木さんの話は始まる。
ル・コルビュジェ、キースラー、リートフェルトが亡くなる1965年は、日本が東京オリンピックを終えて、高度成長経済に突入してゆく大きな節目だった。
1950年から65年までの世界と日本のデザインの推移と世相を対比しながら、
コルビュジェ、ミース、ライト、堀口捨巳、池辺陽、
レーモンド、清家清、アールト、SOM、丹下健三、
村野藤吾、カーン、白井晟一、吉阪隆正、菊竹清訓、
浦辺鎮太郎、ポール・ルドルフ・・・・・・
きら星のような建築家とその作品たちが茂木さんの茂木節で語られてゆく。
それから光吉健次とつくる九大建築学科教室、七山村立小学校、浜玉町役場などのコンクリート打ち放しの建物の数々が紹介されてゆく。
初めてベニヤをコンクリート型枠に使ったときのこと、
打設前日の熱心な清掃の水が災いして脱型したら砂だらけのコンクリートだったこと、
材料費が高く労賃が安い当時には経済的だったHPシェル構造のこと、
HPシェル構造の屋根が脱型後に40cmも下がったこと、
商業ビルの外装300角タイルを手練でつくったこと、
図面を何枚も何枚も画鋲で重ねて描いていたこと、
モデュール(寸法の規則)を共有し、平面と立面と矩計がそれぞれ同時に進行してゆくこと、
事務所全員で1年以上かかって一つの設計を仕上ていたこと・・・
だんだんと茂木さんたちがカッパかテングに見えてくる。
成長経済のなかで建築を習い、小さな知性で煩悩まみれになっている私の日々を、「カッ!カッ!カッ!」と大笑いされているような。
「経済が減退しようが、法律が混乱しようが、いいものはいいものね。ケッ!ケッ!ケッ!」
そして、「やっぱり、建築は構造がカッコよくないとよくないね。テヘッ!」
第3回「茂木謙悟さんを囲んで」楽しみにしています。