梅雨明け
あんなに降り続いた雨が上がって、いきなりの梅雨明け宣言の日はきれいな夕焼け。
嫁に行った長女と、出稼ぎに行った次女と、遊びに行った三女がそれぞれ福岡に戻ってきて、四女のバイトもお休みで、五島の親父も船とバスを乗り継いでやってきて、久しぶりに家族揃い踏みでした。
あんなに降り続いた雨が上がって、いきなりの梅雨明け宣言の日はきれいな夕焼け。
嫁に行った長女と、出稼ぎに行った次女と、遊びに行った三女がそれぞれ福岡に戻ってきて、四女のバイトもお休みで、五島の親父も船とバスを乗り継いでやってきて、久しぶりに家族揃い踏みでした。
屋根工事中のクリニックがあったり、棟上をすべくスタンバッテル住宅があったり、空模様がとても気になる毎日です。
入梅して、まちの緑もぐんと濃くなって、お堀の水面が蓮の葉でいっぱいになりました。
この通りは歩道も広くて実に気持ちがよいのですが、最近立った工事看板によると、歩道の真ん中にフェンスをたてて、歩道と自転車道に分割するって。いらいらするよな地方行政の仕事です。
「他にすることあんだろーーよ!段差をなくすとか。段のある植込みを低くするとか。」
「この通りを年中歩行者天国にするとか!」
分割したり、区分けしたりするんじゃなくて、垣根をとっぱらおうよ。
境界をなくそうよ。
車と人と自転車と乳母車と車椅子が、譲りあって暮らせる街ができるはずだよ。
「お願いだから、僕の大好きな広い歩道にジャマなフェンスをつくらないで!」
大分県別府市に建つ住宅「けものみち」の建て主さまから絵葉書をいただきました。
奥様のお爺様のふるさとの風景。
磯の香りがする風が吹いて、
漁具がぶつかる音がして、
干し魚をねらう猫の鳴き声が聞こえて、
空に鳶がゆっくり舞っているような・・・
私の里も上五島の入り江に面した小さな集落でした。
家内の里も外海町の遠浅の浜に面した集落でした。
海の様子を見たり、港の風景を眺めたりすると心が落ち着きます。
そんな心温まる絵葉書をいただきました。
ありがとうございます。
鹿や狸がいつも通る森の中の「けものみち」。
道が先にあるのではなくて、通ることで道ができていく。
そんな風に住まいができていく。
そんな想いをこめたネーミングです。
大阪からテキスタイルデザイナーの友明が来た。
古くからの友人夫妻とともに、夜舟で五島に渡る。
友明はいつものリュックを背負って、BD-1を転がしながら、待ち合わせのホテルオークラからでてきた。
友人は大きな荷物と釣竿を抱えている。
村長「飯、どこにしようか?”つきよし”も”まるさん”も”一梅”も一杯みたいなんよ。」
友人「家内がいっぺん博多の屋台に行きたい、いいよりまんねん。近くにありまへんか?」
村長「ある!ある!そこの川べりにいい屋台があるよ。」
須崎問屋街にいた頃に、行きつけだった屋台「月しゃん」に行った。
5月の博多川沿いの屋台は、川面を抜ける風が気持ちよくて、芋のお湯割がどんどん進む。
友人はW1SからGUCCIのカー付き、最後はHarley。
友明はYAMAHA AT-1、TX750のカー付き、TY175、現在BMWF650。
村長はCB72、W1SA、XL250、XR80、最後はブロス650、今は何もなし。
話は尽きない。
夜風に当たって、時間のすぎるのを忘れて、あっという間に出航の時刻。
3人は楽しそうに船に乗り込んで行きました。
島での釣りの成果と、長崎旅行がすばらしいものになりますように!
こんなにも緑色って多様だったっけ?
子供の頃は山の色は緑にしか見えなかったような気がするのだけれど、最近やけに山の色がにぎやかに見える。
人は歳を経て、色覚に変化が生じるのだろうか?
短い周波数の青色と、長い周波数の赤色よりも、中間周波数の緑色を多く感知するとか・・・
子供の頃に未発達だった甘さを感知する味蕾は大人になって発達する。
味覚も子どもと大人では違ってくるというから、視覚もきっとそうかも知れない。
それとも、歳とって、春の息吹や生命力に敏感になっているだけなのだろうか?
照葉樹や竹の若葉が、金色に燃え立ちながら山々を彩っている。
新緑を眺めながら、五月晴れの有田陶器市を久しぶりにのぞいてきました。
「0」がたくさんある高周波値札にはほとんど反応せず、「0」がふたつの低周波値札だけに反応しながら・・・
長崎市に勤める友人から「ながさき暮らし」と題するパンフレットをもらいました。
ながさき定住支援センター(長崎市企画部総合企画室内)では県外在住者に対して、風光明媚な長崎で、田舎暮らしをピ-アールしています。
例えば、琴海地区では大村湾内のリアス式海岸に面して、外海地区では出津教会の下の出津川に面して、60坪から150坪の土地を30年間の定期借地で、年間3万円から6万円で貸してくれるのです。
年間ですよ!
条件は県外在住者で現地に居住することと、1年以内に住宅建設に着手することだそうです。
「田舎暮らしの達人」堀江さんは琴海の対岸川棚町に住んでプランナーとデザイナーの仕事をMacでこなしています。
堀江さんの暮らしが土地を手に入れずに叶えられる。
なんと魅力的な話だろう。
今、村長の頭の中は琴海と外海の田舎暮らしではちきれそうです。
コミュニティーサイト運営会社に勤める友人とも、「ながさき暮らし」を大いに宣伝しようとたくらんでいます。
興味のある方はぜひぜひ「ながさき暮らし」をのぞいてみて下さい。
WORKSは明治通り、お堀向かい、大手門東交差点そばの2階にあります。
通り沿いの窓の横に、オレンジ色のバナーが風にたなびいています。
司法書士事務所さんと子供服やさんの間の木の階段(少し急ですが)を登ると、右側が設計室、左側がミーティング室です。
ミーティング室には1700mm×1700mmの白いテーブルがひとつあって、まんなかに小さな花が絶えません。
設計室には2400mm×2400mmの白いテーブルがひとつあって、周囲に全員が座っています。まんなかに加湿器が置いてあります。
古い建物で、大きなトラックが通るとゆれますが、窓の外には建物一つ見えずに、お堀と舞鶴公園の緑がどこまでも広がっています。
ぜひ遊びに来てください。
いつだったか、斉藤昌平さんのお父さんが、となりの服屋さんに来て、たまたまオレンジのバナーを見つけて、フラッと上がってきてくれました。
和(次女)が中学生の頃に一緒に買ったから、15年近くは乗ってるマウンテンバイク。
自宅で古い卓球台と一緒に冬眠中です。
おととしのクリスマス前にこの自転車で小さな段差を斜めに越えて、いきなり転倒。
ヒザとヒジとカタを同時に石の地面にたたきつけて、昏倒してしまいました。
数日後、左腕がカタより上に上がらなくなって、天神の整形外科に。
頚椎症と診断されて、カタをあっためたり、クビをのばしたりしましたが、
ドンドン腕が動かなくなって、総合病院の神経内科を紹介されました。
そしたらなんと、原因不明の難病かもしれないと言われて、
年明けにMRIを撮ることになりました。
先生いわく
「わかりやすく言うと、免疫が末梢神経を攻撃する病気です。
放っておくと神経が細くなっていずれ切れてしまいます。
治療法としては免疫グロブリン大量療法が有効で、1日4時間の
点滴を5日間ぐらいやります。効かなければ血漿交換などの治療法も
あります・・・」
それはそれは恐ろしい話にうなされながら、去年の新年を迎えました。
1月4日のMRI後入院という朝に少しだけ左腕が動くようになりました。
「あれ?じゃ、ちょっと入院は見送って様子を見ましょう。」
何とか、血を入れ替えられる寸前に、腕が動くようになって危機一髪。
その後、首を伸ばしに通った最初の整形外科の先生が、
「うん、神経内科の先生は僕たちと違ってエリートだから、すぐ難しい
病名をつけたがるんよ。よかったね。」
2ヶ月ほど首にサポーターをはめて首長族のような姿で暮らしました。
「病院にいくから病気になるんだ!」という僕の信念は変わらない。
病気にならないように、暖かくなったら自転車に乗ろう。
こけないように。
商売繁盛と家内安全を願って、十日恵比寿に行きました。
家内は福引を引いて、「笑いエビス」があたって大喜び。
おみくじを引いて、「大吉」が出てまたまた大喜び。
村長は今年に入ってからずっと「末吉」です。
去年1年間は10回引いて10回とも「大吉」だったのに・・・・・
今年はなんか、とてつもなく、いいことがありそうな気がします!
少し気が早すぎかな・・・?
開かれた木の扉と
赤と緑の配色と
ズタ袋とぬいぐるみは
やっぱりクリスマスのイメージだよね。
土曜日のお昼をみんなで食べて事務所にもどる途中、
ワークスのそばのチャペルのドアが開いて、
花嫁さんが階段を下りてきました。
それはそれはきれいなお嫁さん。
花嫁が階段の途中から後ろ向きにブーケを投げ、
受け取った女性たちの歓声があがります。
つぎには何故か、花婿もブーケを同じように投げて・・・
ふーーん、 ナンカ・・・男女平等なのね。
大きな風船が割れて、中から小さなハートの形の風船が
12月の真っ青な青空に向かって、舞い上がっていきます。
風船を見つめるみんなの顔がとても幸せそうで、
村長たちも幸せのおすそ分けをいただきました。
12月2日は福岡国際マラソンが平和台陸上競技場を出発し、香椎を折り返して、最終は明治通りワークスの目の前を通ってゴールインです。
そういえば、ワークス博多は博多区須崎の問屋街で、追い山の廻り止め(ゴール)の直前です。
毎年みんなで徹夜して山笠見物したことが懐かしく思い出されます。
大会前の準備がアチコチで始まってます。
秋はスポーツ。
大濠では、ボートの練習をしていました。
秋は芸術。
市立美術館の乙女は少し寒そう。
みどり
あか
きいろ
YAMAHA製6馬力の船外機をつけた筏に乗って、胴付長靴と長ゴム手袋で完全武装したオジサンたちが、柄の長い鎌を片手に、この1週間ほど、毎日楽しそうにお濠で枯れた蓮を撤去しています。
「うーーむ、水深はあんなものか・・・」
「ちょっとだけでいいから僕もやりてえなあ・・・」
「でも、今年のお花見で、ここに転がり落ちて命も落とした人がいたなあ・・・」
「レンコンはどうするのかなあ・・・」
蓮が除かれた水面には、いろんな水草が緑のタピストリーをつくりだしている。
水草が密集しているところは、なんだか上を歩けそうな気がする。
蓮が水面から見えなくなって、九州場所が始まって、もうすぐ国際マラソンが落ち葉舞散る沿道を飾る。
寒がり村長が苦手な冬が、すぐそこまで来ている。
まだ、高い気温の日中ですが、朝夕はめっきり涼しくなりました。
朝、事務所まで歩いてみます。
いつも通りなれた歩くと50分ほどの道筋です。日差しが秋らしく、集合住宅の倉庫に鋭い影を落としています。
今日は糸島の別荘(週末住宅)「月のふね」の竣工です。
野北の海に面して、水平線に沈む夕陽を抱きとめるような住宅が完成しました。
太陽ほどシンプルで劇的に退場したりしないだろう月が、あの水平線に静かに沈む姿を想像しながら「月のふね」と名づけました。
舞さんの恩師土井義岳先生のブログにフランス人宣教師たちは原風景を長崎にうつそうとした?という題で長崎の教会建築のことが丁寧に記されています。仏蘭西人宣教師と日本人大工による教会建築が高窓のない日本独特のスタイルであることを指摘しています。
村長の先輩川上秀人先生の研究にも賛辞を呈されていて、懐かしく嬉しく。
長崎の教会建築郡が幅広く注目されていいます。
妻の実家は長崎県外海地区の畝刈にあります。
海岸沿いを北に行くと三重、黒崎、出津、大野、西海の集落が続きます。
以前紹介した日本一のサンセットロードです。
畝刈はかつて素晴らしい遠浅の浜でした。
陸のそばの砂浜では蛤が、足でグリグリッとするといくらでも採れました。
湾の両袖には川が注ぎ込んでアサリが、熊手を挽くといくらでも採れました。
両袖の沖の磯では岩牡蠣を打っていくらでも採れました。
中央の沖の潟の部分ではマテ貝が、穴に塩を落すとピュッと口を出してそれをうまくつまめばいくらでも採れました。
今は長崎漁港のために、湾すべてが埋め立てられて、長崎市に編入されています。
畝刈でもお墓は集落を見下ろす位置にあります。
最近少し南の福田というところに新しい霊園が見晴らしのいい場所に造られましたが、その霊園は遠く水平線を眺めてサミシイ感じです。
先祖たちが見守る集落から人々は遠く働きに出て、私たちの関係も地縁の薄いものになりました。
74歳になる大村の義姉を伴って、3人で彼岸の墓参りに行きました。
長女の義姉は9女の妻とは18、歳が離れています。
行き帰りの車の中で、義姉は若かりし頃の思い出話を聞かせてくれます。
進駐軍の車に大村から長崎まで乗せてもらったこと。
裁縫の先生をしていて、月に一度美味しいものを食べに行っていたこと。
コーラスのこと。
畝刈の浜遊びのこと。
義父と義母のたくさんの思い出・・・
帰りに長崎新地に寄ると「長崎中秋節」の黄色い灯篭が、新地の路地を埋め尽くしていました。
今年の台風で、テラスにあった古い物置が壊れた。
土曜日に新しい「ヨドモノオキ」が届いて、連休は大掃除。
古いキャンプ道具は、2バーナーのコールマンもホワイトガソリンのランタンも紫色のテントもメンテ不良で壊れていた。
ほとんど使っていなかったパラソルとハンモックとターフを虫干しにした。
小さな台風が素通りしていった秋空に鮮やかなパラソルの色彩がたなびいて気持ちよかった。
日曜日の夕方仕事をしていて、通りから「うあーッ、夕焼け!」という声が聞こえて、飛び出した。
先週の橘湾の素朴な夕陽とは趣を異にして、都会の西の空を濃く染め上げながら、急ぎ足に陽が沈んでいった。
今年の花火大会もたくさんのお客様が来てくれました。
照明デザイナーの山本さんは明るいうちから・・・
ハルト君はお手製のくじを持ってきてくれました。
斉藤事務所の徳さんワークス展示をフルに楽しんでくれました。
中川さんの奥様はスタッフ全員のT-シャツを設計製作してくれました。
村長の奥様は得意のから揚げを持ってきてくれました。
浴衣姿も色っぽい「ケイちゃん」と「アズ」。
ふくおかNPOセンターの「吉富くん」と飛鳥工房の「ジュンちゃん」。
デザイン機構の「アラタくん」と城戸君のフィアンセ「のんちゃん」。
ミッション(家具)の森岡さんとそのお友達。
「月の船」の永嶌先生はランニング姿で奥様と。
バンコさんもご家族で。
ほんとにほんとにありがとうございました。
事務所の片付けと展示と料理つくりと運営に張り切ってくれたワークススタッフのみんなごくろうさまでした。
おかげで楽しい花火の宵でした。
ワークスの真下の1階には魅力的な子供服のお店があります。
「ciel et soleil」
お隣の女性服のお店「ambiente」や少し離れた「cozy」のオーナーが経営する姉妹店です。
通りにアルミ製のテーブルと椅子を置いてあります。
石ころにメッセージがペイントされていたり、小さな縫いぐるみがカラフルに並んでいたり、いつも、かわいい店が活き活きしています。
もちろん商品の子供服もセンスよくセレクトされたものでお客さんが絶えません。
なんといっても、店長のおねえさんの笑顔が素敵です。
窓辺に、グリーンの壜にオレンジの花が活けてありました。
前の通りは自転車で通る人がとても多いのです。
2階のワークスにも、ときどきお店と間違えて、通りがかりの女性がノックすることがあります。
事務所近く、某銀行本部工事現場のクレーンが3基になりました。
夏の朝、強い陽射しを浴びて青空に毅然と聳えています。
夏時間ということで、試験的に朝8時から仕事を始めています。
1時間半早まるだけで、午前中が随分長く感じられます。
一仕事できます。お腹が減るのも早いけど・・・
そして夜は少しでも早く帰るようにしたいと思っています。
蝉の声も少しずつ聞こえ始めました。
でもなんだか、蝉の声が少ないような気がするのは気のせい?
威勢のいい掛け声が響いていた魚市場は明朝まではガランとしている。
空き地では屋台の群れが今晩に備え、マントを纏って立ったまま昼寝している。
波止場に停泊中の油を運ぶ船のバルブは全員シッカリ閉まっている。
「OIL」の煙突も息を潜めてお休み中。
コンテナーの犬くんだけがヘルメットをかぶって一人で走っていた。
長浜にある会社を訪ねたついでに海辺のほうまで足を伸ばしてみました。
港には日常とは異なるスケールがたくさん。
船溜りではおじさんが一人で鯵子釣り。
南蛮漬けにすると旨そうなかわいいのが釣れています。
赤い船と、緑の船が
仲が良いのやら。悪いのやら。
くっつき合っているのか。突っ張りあっているのか。
黄色いタマゴを間にして、ロープはぴんと張っていました。
福岡都市高速道は天神北ランプから西公園へ向かう途中の吊橋の景観が好き。
海の上を緩やかにカーブしながら、右手遠くに志賀島を、左手下に福岡船溜りと博多漁港を見下ろして、疾走しながら握るハンドルは爽快です。
造船中の船の様子は通るたびに変化があります。
逆に、船溜りから吊橋を眺め返すと、こんな印象的な景色でした。
「ムッツリしたでかい顔やなあ!」
7月11日は突然の嵐。
乱暴者のような風と雨がゴーッゴーッと吹き荒れていきました。
お濠の蓮の葉も白い葉の裏側を見せて舞い狂っています。
ああ!花弁がもろい蓮は、せっかく開いたのにパラパラ散ってしまう。
明けて、12日は糸島の別荘「月の舟」の屋根スラブ配筋検査。
「アチ-ッ!アチ-ッ!」沖縄から駆けつけた構造設計者の末松さんがフーフー言ってます。
検査後、冷房の効いたレストランの海側のガラス窓を、青い飛蝗が陽射しを浴びてスイスイと昇っていきました。
その夜半は福岡市上空は雷様の大乱舞!ピカピカ!ドンドン!ピカピカ!ドンドン!
いよいよ週末15日の朝は追い山。
博多部で流れがきのオイサッ!オイサッ!の掛け声が聞こえてくると、やっぱりワクワクしますね。
山笠が駆け抜けた後には、キラキラの夏が来る。
鴨のヒナたちがこんなに大きくなりました。
右端で周囲に目を配っている母鴨。
福岡城址側のお濠端ではアジサイが元気です。
こちらの水面には黄色い蓮の花が輝いています。
もうすぐ梅雨・・・
yokoさんのご教示で解明しました。スッキリ!
唐草図鑑:ロータス
「 ハス、スイレンの呼吸
根や株は空気(酸素)を必要とします
そこで、葉の表面などから取りいれています。
特にハスの葉の茎を切断してみるとストローのようになっています。
ちょうど太いストローの中に細いストローを数本通したような感じです。
ハスの根(いわゆるレンコン)も穴が空いているのは空気を通すためで、
この葉と根は当然つながっています。
葉柄や地下茎にもレンコンと同様な穴があり
葉で形成された酸素を泥の中に送り込んでいる。」
by Y.HADA 岡山理科大学 総合情報学部
生物地球システム学科 植物生態研究室(波田研)
なるほど、じゃ、あの泡は蓮の葉がレンコンに酸素を送っている泡なんだ。
僕らが水に潜って、鼻をつまんで、クッと耳抜きをすると、眼からプクッと泡がでるけど。
あの感じなのかな・・・
蓮と睡蓮が違うことも知りました。
お壕の水中から次々に蓮の若葉が顔を出します。
若葉の上のシオカラトンボ。
水面に開いた蓮の葉には今朝降った雨が水滴になってキラキラところがっている。
葉の中央に大きくたまった水を見ていると、あれ!気泡が・・・
プクッ・・・プクッ・・・と大きな泡が出ている。
よく見ると、他の蓮の葉も中央の水滴には気泡が出ている。
蓮が呼吸をしている???
それとも、光合成???
気泡は酸素?それとも二酸化炭素?
調べてみよう。
三女の萌は文学部の4年生。
5月5日、こどもの日、萌の友人たちを呼んで炭火焼パーティーをしました。
連休中は魚市場はお休み。
志摩の朝市にサザエとイカとアサリと豆鯵と野菜を買出しに。
朝市は8:30から開くのだけど、オープン前から行列でした。
新鮮な魚介類は30分から1時間で売り切れる勢い。
朝市はいいね!
日本二人、韓国二人、中国二人、香港一人、仏蘭西一人の女の子たちばかり。
短期の留学生たちです。
なかなか日本語が上手でした。共通語は英語。
村長さんはランゲージギャップとジェネレーションギャップであまり話題に入れませんでした。
娘さんたちは夜が更けるまでキャピキャピおしゃべりに花盛り。
やっぱり男の子の話題が多そうだったね。
サザエのつぼ焼きが好評でした。
よかった。
勝つ者は恨みを受く
負くるものは夜も寝られず
勝つと負けるを離るる者は
寝ても覚めても安らかなリ
『ダンマパダ』
寝ても、覚めても、歳をとっても離れられず。
君たちのように水面にプカンと浮いていられたら・・・
私は海を眺めると心が落ち着きます。
できれば日本海や玄海灘のような北側の海でなく、日向灘のような東の海でなく、有明海や枕崎のまぶしすぎる南の海でなく、蒼かったり、赤く映えたり、白く輝いたり、暗く荒れたりする変幻自在な西の海が好きです。
これは中川タクマさんの写真のように美しく撮れませんが、長崎県西彼杵半島外海町にある遠藤周作記念館から眼下に広がる「西の海」です。(中川さんはなんと美しい紺碧の海を写すのでしょう!)
4月の東シナ海(角力灘)は水平線に白く靄がかかって海と空が繋がっています。
記念館から見える集落に白い大きな教会があります。
以前ご紹介した大野教会の主任教会である出津教会です。
外観内観とも非常に端正な姿をしています。明治15年にド・ロ神父によって建設されました。
明治26年に同じくド・ロ神父によって設計建設された大野教会と同様に、他の教会とは異なる独特のデザインです。(2回の増築によって外観のプロポーションは創建時とは異なるのですが。)
どちらも教会建築というより修道院建築のようです。
奇をてらうことなく、華美でなく、質実で簡素でありながら、オリジナリティーに溢れている、そんな建物が私は大好きです。
私には長崎に恋人がいます。
西の海を見下ろす急な斜面の森のほとりで、いつも西の空を背にして、信徒が少なくなった小さな教会を見守っています。
異教の主の母ですが、人気のない森に佇む姿は観音菩薩のようでもあります。
ちなみに私の守護仏は田舎暮らしの達人堀江さんによると文殊菩薩なのだそうです。
木洩れ日の後光が射すお顔はいとおしく、逢うとまた元気を取り戻せるような気がするのです。
陽気なユリカモメたちと違って、鴨は日がな一日ゆっくりと、人の手の届かないあたりでたむろしている。ときどき群れから離れて、つがいの鴨が泳いでゆく。夫唱婦随なのか、婦唱婦夫随なのかわからないけれど、離れたりくっついたりしながら、それでもずっと二人で、堀の端から端まで泳いでゆく。
そういえば雑誌で鴨猟の記事を見たけど、網で猟をするのだけど、一日に2羽までという規制があるらしい。雑誌の写真で猟師が2羽の鴨をしとめていたけど、やっぱり雄雌つがいの2羽でした。つかまる時もつがいなのですね。鴨南蛮そばをこないだ食べたばかりの私は複雑な気持ちでした。
かわいいアマゾネス軍団のなかに無謀にも飛び込んできた、オープンデスク2番手はゴトウくんです。
ドイツ留学の経歴を引っ提げて、都市計画専攻の修士を卒業するナイスガイ。
模型もなかなかの腕前。
弟分ができてよろこんでいるタカシくんに現場をあちらこちら連れ回されています。
ワークスの前のお堀端には桜の木と柳の木がずっと並んでいます。
桜のつぼみがふくらんで、柳の細い枝に若葉がいっせいにつき始めました。
明治通りを通る人たちの顔がほころんでいます。
少し歳をとってから、季節の中では春が一番好きになりました。
子供の頃はなんと言っても夏が一番だったけど・・・
一陣の春風のようにWORKSに若々しい息吹を吹き込んでくれた
オープンデスクの「けいちゃん」。
君の天真爛漫な明るいポジティブさがとてもとても印象に残っています。
君がつくった丁寧でかわいい模型も残っていますよ。
また春からは京都での充実した学生生活を送ってください。
いつかまた会える機会を楽しみにしています。
筑紫野市の天拝山の奥に田舎暮らしをしたい方の候補地があって、舞と小葉紅と3人で現地調査に行きました。山神ダム下の小川沿いのレンゲ畑でした。紅梅や白梅が満開で春の光に輝いていました。あたりは起伏のある里山の風景、竹林の裏山と小さなせせらぎと古い柿木や梅林が拡がるのどかなロケーションでした。
「こんなところに暮らせたらいいねー。午後からの日当たりが山陰で良くないけど、設計でカバーできるよね。」「山を越えて射す陽の光を一度白い中庭の壁で受けて、その中庭を中心に設計するといいと思うんだけど・・・。」「学校はふもとの小学校に通うのかな。子供が小川に落ちそうね。」「ときどき落ちるぐらいがちょうどいいよ。そうやって子供はいろんなことを覚えるっちゃけん。」「でも寂しくないーー?」とかナントカ言いながら、車一台通れるだけの山道をもう少し上のほうまで行ってみました。
「まいこ・料理・ギャラリー」と手書きの看板がある一軒家にたどり着くと、犬が吼えていて、引返そうとしたら、舞が「アレ!さるじゃない?!!」
吼えている犬のそばの門の上に何か動くものが・・・
「キャー、サルよ!さる!」サルがおいでおいでしていました。
3人でそばによって見ると、今度は塀の上で真っ赤なお尻をこちらに向けて、オシリペンペンし始めました。
「かわいいーー!」「バカにしてるんじゃない?」とかさらに近づくと、おサルは急に牙をむいて、キイイ!と叫びながら塀の上を走ってきました。
「キャーーーー!!!!」「いやーーー!!!」とあっという間に二人は坂道を転げるように逃げていきました。逃げ遅れた村長は遠くの車の陰から「写真撮って!撮って!」と叫ぶ二人に命じられて、やっとこさシャッターを押しました。
その後おサルは民家の屋根を超えて山に帰っていきました。
みんな無事で良かったね。
お堀沿いの桜のつぼみがまだ堅いけどずいぶん膨らんできました。でもあまりの陽気で桜が咲くタイミングを見失って開花が遅れる可能性があるそうです。
花粉が飛ぶのも例年よりずっと早いらしくて、家内は花粉が寝静まった夜に買物に行くようになりました。
今年からWORKSのタカシ君も鼻がグズグズしています。気がつけば花粉症の人が廻りにとても増えました。子供の頃はただただウレシウキウキの春だったのに、なんか雰囲気が変わりましたよね。排気ガス、黄砂、スギ花粉、カビ、ダニ・・・。子供の頃僕らが吸っていた空気とは違ってしまったんだよね。空気だけじゃなくて水も食べ物もきっと違っているんだろう。
それでも、もうすぐお花見の頃。卒業式が済んで、新入社員が来て新しい気分でまたパーッとやりましょう。
堅い桜のつぼみの足もとに今にも飛んでいきそうなほど満開なタンポポの綿毛がありました。
春の陽にきらきら輝いていました。
今たくさんの渡り鳥が集っています。マガモとユリカモメです。
今日もあたたかい陽気で、お昼休みは堀端でお弁当をひろげる光景があちこちに・・・
あれっ!カモメが集まって騒いでいると思ったら、OLさんが二人でパンくずを投げていました。
さっそくOLさんのそばに寄ってパシャリ。
近くには鳩やカラスも寄っていましたが、こんなに陽気にパンくずに飛びつくのはユリカモメだけ。旋回しながら空中停止したり、着地後にジャンプしたりして、お姉さんのパンが無くなるまで騒いでいました。
春のような陽気で雲ひとつない週末、佐賀に蟹と牡蠣を食べにいきました。
来週から東京の会社にトラバーユする友人と、来春から東京転勤予定の友人と三人です。一緒に行かない家内と子供たちに後ろ髪を思いっきり引っ張られながら家を出たのです。
武雄北方ICで高速を降り肥前鹿島を通って左手に有明海の浅海を眺めながら、長崎との県境の竹崎の「鶴荘」を目指します。
鹿島のGSのおじいさんの「竹崎蟹ば喰うならどこでも大して変わらんけど、、「竜宮」は北島三郎が来たとかゆうて有名かけど・・・・うーん、鶴荘がよか!わしらも時々行きよったけん。あそこならよか。ずーっと行って左に行けばよかけん。」という言葉を頼りに、ずーっと三人で左を見ながら、途中ロードサイドの「牡蠣焼」「竹崎蟹あります」の看板を尻目に走っていきました。左に分かれ道があるたびに左折して三度も行き止まりに遭遇しながら(・e・)、竹崎城址そばの港に面した旅館「鶴荘」にたどり着きました。
冬の港を見下ろす小さな部屋でワタリ蟹と牡蠣を満喫したのでした。
東京の若い友人は「この蟹は身がしっかりして、味が濃いっすねー。タラバやマツバより旨いわ!」と大満足。黙々と蟹を食べ終わって友人を見ると、かにの殻にカキ色のたまごを残している。「たまご好かんと?」と聞くと彼はニヤリと笑って仲居さんを呼び日本酒を注文して、蟹の肉とたまごの入った殻に酒を入れてうまそに一人で飲んだのでした。「あーあ!運転手は飲まれんもんね。」
腹いっぱいの三人は潮風を浴びて波止先の釣り人をからかいながら、見つけたのがこの派手なお土産つきの石の恵比寿さん。冬の日差しを浴びて笑っていました。また陽気な気分になりました。
2月4日は私の祖父の25回忌で上五島に渡りました。
庭には母が大事に育てていた何種類もの椿の花が暖かな冬の日差しの中で輝いていました。
働き者の祖父は93歳で亡くなりました。
日露戦争に出兵し台湾で働いて、敗戦で上五島に引き上げてきた時はまだ40歳代、父は二十歳でした。
離島の農家に生まれ,新天地の運輸会社で丁稚奉公から重役になるまでの前半生と,郷里に戻り農業しながら島に暮らした後半生でした。
わずかな水田と点在する畑と急斜面の山といくつかの家屋と、都会で暮らす子供達や、半農半漁の島民の暮らしを気にしながら、いつも体を動かしている人でした。
描いてくれる絵は水平線にタケノコ島とホカケ舟。
早くに連添いをなくした人でした。
信心は無かったけど、戦争で亡くした長男を祀る護国神社に毎年参っていました。
孫たちを厳しくかわいがってくれた人でした。
舞が総領の曾孫でした。
ところで、五島にあるほとんどの教会が大工鉄川与助の手になるものです。
鉄川は日本伝統の大工技術を駆使して、本来石造の意匠であるカトリックの教会を次々と実現していった類まれなる建築家です。
材料や工法の研究に、当時、五島から東京帝国大学まで足を運んでいたようです。
鉄川は私の祖父と同郷で仏教徒です。
彼が建築した教会を含む「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が 文化庁の世界遺産の暫定リストに載りました。
鉄川与助の孫娘は私の中学の同級生です。
魅力的だった(今もきっと魅力的なのだろう)彼女が描いている「おじいちゃんが立てた教会」を紹介します。
http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/