まちの姿
いくつかの建物が集まったときの、町の景観について考えています。
世の中に大きな規範というものが見あたらない時、人々に共有する価値観のようなものが少ない時、技術が表現を規定してしまうというようなことがない時、私達は建物にどのような意匠を施すのだろう。
そもそも意匠を施すという言い方に意匠を機能や技術から切り離せるという前提がある。
かつて、安藤忠雄さんや伊東豊雄さんはコンクリートやアルミに表現を還元してみせた。
デビューした時の妹島和代さんは軽やかな感性で謳い踊るような軌跡を形にしてみせた。
藤森照信さんは高笑いする悪党のように、見たことのないような形をいきなりポンと出す。
才能ある建築家たちは、意匠の意味を問い直すところから新しい地平を切り開いてきた。
しかし、建築家の手になる建物がまちなみを創りだすことは極めて少なく、「まちづくり」に取り組む建築家達も、伝統的デザインの他にまちなみの意匠を語ることができないでいる。
むしろ、建物が商品として「デザイナーズ○○」と呼ばれるようになり、建築の意匠は加速して消費されるようになった。
ときおり、彼の国や地方の意匠を纏いながら、誠実にデザインされた建物に出会うことがある。
それらは大抵、姿かたちや部品が何処かのスタイルを踏襲しているではなく、材料や工法や地域性に対する理解の下に建築がなされている。
石と土と木と鉄とガラスとそして人との関わりが丹念に扱われている。
私達が彼の国やその地方独特のまちなみに心惹かれるのは、きっとそのような生活に対する丁寧さと建築が経た時間の厚みだと思う。
余剰戸数450万の住宅と過剰過大な公共建築とスクラップアンドビルドの商業建築。
量としての建築が充足しても、わたしたちのまちは何故か豊かにはならない。
皮相なスタイルやテイストに頼ることのない、誠実なものづくりが必要だと感じる。
個々が主張し突出するのではなく、かつ固定的伝統意匠に陥らないデザイン。
地球規模の課題を直視しながら、豊かな生活を求める普通の視点。
そのようなものがあるような気がする。
きっと私たちのまちの姿を誇りに思える時が来るような気がする。
その時のために建物をつくり続けたい。